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新潟偉人伝 益田孝(ますだたかし)、鈍翁(どんのう)

《プロフィール》
益田孝は、幕末に佐渡で生まれた後、10代で幕府の遣欧使節の一員としてパリに渡りました。明治時代に入り、なんと29歳で三井物産会社を設立、その後、日本経済新聞社の前身である「中外物価新報」を創設、そして三井合名会社の理事長として三井財閥を築き上げました。

一方、近代を代表する茶人・数寄者としても名をはせました。この時代"茶"は財界の人々の間で重要な社交の場となっていました。名物の茶器・軸を肴に茶会を催し、同時にその席で政財界の動き、仕事の取引までが話題にのぼったのです。その中心人物が、利休以来の大茶人とまで形容された益田鈍翁(号)でした。

鈍翁が一代で集めた美術品の数は4千点を超えるとも言われ、個人で一千億円以上をかけたと言われています。その中には、今日の国宝に指定されているものも数多く含まれます。

《エピソード:佐竹本三十六歌仙絵巻切断事件[アート]
数ある三十六歌仙絵巻の中でも、最も古く、また群を抜いて優れていて美しいといわれていた絵巻で、秋田の佐竹伯爵家に伝来したとということから「佐竹本」と呼ばれています。

大正6年この佐竹伯爵売立の際、山本唯三郎という船舶業で儲けていた社長が、当時の金額で35万3千円で手にします。(現在の価格で約40億円[exclamation]

ところが、第一次世界大戦で、不況となり、この会社も業績は悪化、この絵巻も手放さざるを得なくなったのです。ところが、不況の最中、こんな金額を出せる人はいません。

そこで、なんと36枚に切断して、バラバラに売ってしまうという事件がおこったのです。 それが「佐竹本三十六歌仙絵切断事件」といわれるものです。

益田孝(三井物産創始者)邸に、買い手が集まってくじ引きで決めることにし、歌仙絵には人気に応じて値段に大きな差がつけてあったそうで、人気は5人いる姫君。なかでも、皆が欲しがったのが“斎宮女御”。

抽選の結果、鈍翁のくじは大はずれ。よりによって一番人気のない“僧正遍昭”。
鈍翁の顔がみるみるうちに不機嫌になり[ちっ(怒った顔)]、その場はピリピリしたムードになったそうで、“斎宮女御”の当たりくじの人がそっと“お譲りしましょう”と助け舟を出したそうです。

もう、鈍翁は大喜び[わーい(嬉しい顔)]。この絵の値段は現在貨幣価値で5億円[exclamation×2]位したといいます。
凄いことに鈍翁はこの絵を1.5億円かけて表装し、茶席の掛け軸として、終生愛用したといいます。[喫茶店]
A.H

【参考】
三井広報委員会
http://www.mitsuipr.com/history/hitobito.html
佐竹本「三十六歌仙絵巻」切断事件!
http://homepage2.nifty.com/seigakudo/satake.htm
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